Labyrinthos

ひと月

前回記事は先月20日だったから、どうせならもう二日待ってから、とも考えたけれど、そのこと自体に今は意味を感じなかったので突然今日更新。

先日誕生日を迎えて、47歳になった。感慨も何もあったもんじゃない。すんなりトシをとって。それというのも今年はこの4月から…(以下略)。

ある年下の同僚が今年を評して「人生の中で3本の指に入るくらいしんどい年」と言っていたけれど、ほぼ同感。それというのもこの4月から…(以下略)。

今は楽器を弾く・教える・ことと同じくらい…もしかしたらそれ以上かも…何かを書く・仲間と話すことに時間を使う毎日が続いている。したくてそうしているわけではないけれど、今やるべきこと・やらなければならないことを考えたり片端から片付けていこうとすると、どうしてもそういう毎日。

それは、本当につらい時間が多いのだけれどその合間に弾く・聴く音楽に、私自身がホッとさせられていることに気づくのはとても嬉しいこと。その力を感じることができたのはとても有難いこと。もしかしたら、つらい時期だからこそ、ということもあるのかもしれない。いつでも感じていたい・気づいていたいと思うけれど、凡人は悲しい。


日頃仕事で楽器を弾いていると、つい「理屈」に頼ったり、「洞察」のようなものを求めようとする意志が働いて、自分ながらとても人間ぽい(?)と思うのだけれど、最近のように体が疲れていたり時間がぎりぎりだったりすると却って、天才達が書いて現在まで残っている古今の名曲が、その音楽そのものが「人智を超えている」のだ…ということを感じられる瞬間に、ふと思い至る頻度が高くなるような気もして。

こじつけだったり意味の後付けだったり、自己救済へのエネルギー注入なのかもしれないのだけれどね。

ずっと以前、尊敬する先輩から聞いた話、あるチェリストの言葉。
「良い音楽は、いつも部屋の真ん中のテーブルの上に載っているとは限らない。もしかしたら、部屋の隅に、気づかないようにそっと降りてくるかもしれない」


その音楽が降りてくるのを、床に落ちる前に手に取りたい・捉まえたい、食べたい飲みたい…と、とても強く思う。

たとえばそんな音楽や、他にも何か目立たないカタチでそこにある小さいもの、忙しく通り過ぎてしまう時間の中に見え隠れするそれら大事なことへの「動体視力」みたいなものを一所懸命持ち続けよう、と何となく決意した今日なのだった。

ごめんね抽象的で。

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